ギャグ・アニメ・身体(仮)

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覚書:ラーメンズ 「超虚構」と「魔法」

ラーメンズの『バニーボーイ』(CLASSIC)で、片桐仁が「死ねばいいのに」と言う(小林賢太郎はこんな直接的なセリフ書きそうにないのでアドリブかと思う)シーンがあるが、その直後に自分でもびっくりしたように顔がひきつってるのが何度見ても面白い。その後も口を撫でたり眉をなぞったりせわしない。

ラーメンズの面白さは、テキストとしての面白さ以外では、神経質にコントロールされた演技と、その一方でコントロールしきれていない身体性が相互に立ち現れる部分だと思う。

ただし、コントロールしきれていないのは片桐仁ひとりの功績ではなく、コバケンの方もかなり貢献している。片桐さんは自分でも運動神経悪いと言っているけど、小林さんも運動神経はそんなに良くないんじゃないかと思う(少なくとも僕にはそう見える)。けど動けるように見せるのが上手いということだろう。それか苦手な動きをしないようにしているか。

小林賢太郎の極度に虚構性の強い演技にこそ、実は本人の身体性や人間性がよく表れていると思う。というかコバケンは、「嘘」という概念があまりにも好きなのか、何かを本当だと信じ込ませるために嘘を使っているというより、嘘をついていることそれ自体を見せているようなところがある。

広告批評』274号「ラーメンズ特集」(2003年9月号)で、小林賢太郎宮藤官九郎との対談記事で「ディズニーランドみたいになりたい」「超虚構、超正義が好き」と言っていて、インタビュー記事ではマジックに傾倒した思い出について語っている。

あの虚構性の強い演技に身体性や人間性と言う形で綻びが現れてしまうというのも、それが「魔法」(本当)ではなく「手品」(嘘)であるという点ではむしろ良いことなのかもしれない。手品で起きていることを信じ込ませる必要は全くないし、むしろそうなると手品として適切に鑑賞されなくなる。

でも、コバケンの言う「超虚構」はほとんど「現実」としての「魔法」とイコールだろう。これは虚構のパラドクシカルな性格で、つまり虚構は"信じる"と、信じるその人にとってはもはや現実になってしまう。トランプが消える手品は、実際にはトランプが消えていないからこそ手品として楽しめる。しかしトランプが消えたと信じるその人にとっては、トランプは現実に消えたのであって、それはもう「魔法」なのだ。

対談記事を見るに、コバケンが志向しているのは「手品」であって、それはあくまで作者と観客は騙しー騙され関係の中にあるものだった(「僕が客だったら、こういう騙され方をしたら絶対気持ちいい」)が、熱狂的なファンの一部は恐らく、騙されるのではなくて信じた。彼らにとっては「手品」ではなく「魔法」になった。小林賢太郎が言うようにコントを「商品」(「僕の中では、コントって商業なんです」2001.9)としてでなく、ロマンチックに受容して、その作者を「魔法使い」だと信じるファンはきっといるだろう。

そうした虚構のパラドクシカルな性格について、小林賢太郎は少なくとも記事の中ではネガティブな言及などはしておらず、本当に「超虚構」が成立すると思っている。しかし虚構がその効果を発揮すれば発揮するほど、それは現実になってしまうはずだし、現に一部ではそうなっているだろう。

宮藤官九郎は、破綻がないものは苦手と言ったうえで、ラーメンズにはどこか破綻しているところがあると指摘していて、それを台本の可変性という点で説明しようとしているが、僕は破綻しているのは「超虚構」という理屈、論理だと思っている。「超虚構」は成立し得ない。だが、破綻していないものに魅力なんてあるだろうか。

で、片桐さんの身体性がその「超虚構」というものを、あらかじめ虚構の時点である種、失敗させている。そしてその失敗によって作品が成功している。個人的には小林賢太郎より片桐仁のがよほど底が見えない人間だと感じるのだけど、それは底が無いからなのだろう。

片桐仁は、4年後の『広告批評』(2007年12月号)でこんなことを言っている。「自分のからだをうまくコントロールできないタイプなんです。興味を持つんだけど忘れちゃうんですよね。(中略)だから僕ほんとは、昨日生まれた人間なんじゃないかって。」この言葉に現れているのはまさしく有限性そのものだ。片桐仁に感じる底の無さは、つまるところこの忘れっぽさだと思う。

同号より。小林「そもそも、タレント性ではなく、脚本があるものに絞るってのは、この人〔片桐〕に合わせて始めたことなんですよ。(中略)最近ね、ラジオでパーソナリティなんかやり始めて。しかも、オレにひと言ないんですよ! おめえが縛ったんだろ、ラーメンズのルールは!……でも、忘れちゃってるんですよ。たぶん。そんな会話は。」
片桐「忘れちゃってる……。」

ちなみに、エレ片のラジオに電話出演した際のコバケンの妙な素っ気なさ(「ヘンギリさん」)も、ラーメンズのサイトを作ったことを片桐さんに知らせていなかったことも、恐らく片桐さんがラジオの件を小林さんに伝えなかったことの意図的なパロディだろう。でも多分、伝わってない。なぜなら忘れているからだ。

ファン的な言い方をすれば、片桐仁をあそこまで見事に活かすことができたのは小林賢太郎だけということになるのだろうが、しかし僕が思うのは、あらゆることを完璧にコントロールしようとする小林賢太郎の計算を、何の計算もなく狂わせ、裏切ることができるのは、性格が素直で台詞が覚えられて、しかし身体的なコントロールが苦手で忘れっぽい、片桐仁のような人物だけだろうと思う。前述したコント中の身体性という点でもそうだし、また事実上の解散ということも含めて、二人の組み合わせは素晴らしい。つまり、僕がこのコンビの魅力だと考える「意図せぬ有限性」が最大限に高まるとき、それは事実上の解散という形でしか現れなかっただろう、と思うのだ。

これは非常にアイロニカルなことだが、僕は人間の魅力というのはアイロニカルにしか現れてこないのではないかと思う。

広告批評』252号(2001年9月)より。小林「最初は、きっとなんかトリックがあるはずだと思って考えてたんですけど、結局、彼〔片桐〕は手品師じゃなかった。魔法使いというか、超能力者だったんです。タネがないんです。僕は手品師だから、全部タネがある。」

有限的な身体にこそ魔法が宿る。「超虚構」は、有限性を逆照射する装置としてはたらく。活動停止と事実上の解散は、有限性の見事な帰結だった。