ギャグ・アニメ・身体(仮)

主に映像について。

『千本桜』の歌詞考察は決してできないということについて

「大胆不敵にハイカラ革命……」と頭の中で歌っていたときに、ふと、そういえばこの曲ってどういう世界観なんだろう?と気になった。

「千本桜 歌詞 意味」と検索すると、予想に違わずわんさか出てくる。でも、見た限り決定的な解釈はなさそうだ(だからこそ考察欲を掻き立てるのだろう)。

おおむね一致しているのは、明治時代か大正時代あたりの世界だろう……ということくらいで、あとは政治的な解釈として、その時代の風潮を批判する(作詞者の立場というより、物語の設定として)ようなニュアンスだろう、といったもの。

一応、「千本桜(曲)」のwikiでは以下のように書かれているが、出典は書かれていないので、これも一つの考察に過ぎないと言わざるをえない。

歌詞は、明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩的な内容である。投稿されたニコニコ動画の映像は、大正浪漫の雰囲気を醸し出しており、カラオケでも同映像が使用されている。

この記事では、そういった考察を改めてするのではなくて、考察がなぜこんなにまとまらないのか、決定的な考察が成立しないのはなぜか、について、言葉の構造的な面から考える。

先に書いておくと、この記事は『千本桜』歌詞のメタ考察というより、「文の解釈というものがいかに一つに決定できないか」の面白さにフォーカスしており(というか書いていくうちにそうなった)、とりわけその面白さがよく味わえるのがこの『千本桜』である、というような位置づけをしているので、読む際にはそのことに留意していただきたい。

※言及は一番までで終わっています。

まず最初の部分。

大胆不敵に ハイカラ革命

多くの考察は、この「ハイカラ」という言葉で、「明治か大正かな?」くらいに漠然と見当を付けているのだと思う。ハイカラという言葉が使われ始めたのは明治時代(ブリタニカは初出を1900年頃と説明しているが、Wikipediaでは1898年説を推している。いずれにせよ明治時代)だ。ちなみに、「はいからさんが通る」の舞台は大正時代。一応、wikiの説明によると、「ハイカラ」という言葉は昭和初期(戦前)までは原義に近い意味で使われていたそうだ。しかし『千本桜』の舞台が「昭和」だと考察している記事は、私の見た限りではなかった(PVには東京タワー(1958年誕生)が描かれているので、昭和だと解釈する人がいても不自然ではないと思うし、見つからなかっただけできっといると思う)。考察といっても、大体自分の持っているイメージを基に判断しているのだろう。

※なお、この楽曲を基にした派生作品(小説、舞台など)に加え、PVも歌詞の解釈の根拠になるかというと、ちょっと微妙だと思う。イラストを担当している一斗まるさんが絵を制作するにあたって、作詞者の黒うささんがどれくらい関与しているかがわからないからだ。「ここはこういう意味で……」と説明したかもしれないし、「曲を聴いてイメージしたものを自由に描いてください」と依頼したかもしれない。そこがわからない限り、PVの絵も歌詞の意図を直接表しているというよりは、作品解釈を基にした二次創作だと捉えておいたほうが良いだろう。

他に、「明治維新から終戦くらいまで」など、元号を特定しておらず、漠然と戦前あたりを色々折衷しているのでは、といった考察も可能だろう。

(ここからが本題)しかし、上に挙げたのはいずれも、「ハイカラ」という単語の意味や使用例を基にした時代の推定である。しかし実際の歌詞で歌われているのは「ハイカラ」ではなく「ハイカラ革命」だ。「ハイカラ+革命」の造語だが、これが「ハイカラをシンボルとした革命」(似た用例:オレンジ革命)なのか、「ハイカラさんによる革命」(用例:青年トルコ人革命、ウラービー革命)なのか、「服のハイカラに革命が起こった」(用例:価格革命、科学革命)なのか、わからないのだ。

例えば、ハイカラをシンボルとした革命だったり、ハイカラさんによる革命なら、令和の時代にいわゆるハイカラさんの恰好をすればそれは「ハイカラ革命」と呼べるだろう(例えば、戦前文化を取り戻せ的な運動が考えられる)。少なくともハイカラ概念が誕生以後であれば、「ハイカラ革命」は可能だ。この歌詞全体の文脈を踏まえないと、「ハイカラ革命」の意味は取れないし、時代もわからない。しかし最初に書いたように、歌詞の”正しい”考察は無理だというのが本記事の結論なので、この造語の意味は結局わからない。

磊々落々 反戦国家

「磊々落々」(小さいことを気にせず朗らかに、の意で、「磊落」の強調した形)と「反戦国家」という二つの言葉が並んでいる。「磊落(磊々落々)に笑う」という風に形容動詞として使われたり、「豪放磊落」「磊落不羈」など四字熟語の中に入っていたりする。

しかし、この二つの言葉の意味が論理的にどう繋がっているかは決定しようがない。「磊々落々たる反戦国家」なら、「小さいことを気にせず朗らかな反戦国家」みたいな意味になる。しかし、「私は磊々落々」みたいに主語の省略として解釈すると、また話が変わってくる。「私は磊々落々だ。さあ反戦国家」(小さいこと=反戦国家を妨げるもの)とも取れるし、「私は磊々落々だ。反戦国家に対しても」(小さいこと=反戦国家やその風潮)とも取れる。

もし「大胆不敵にハイカラ革命」が「大胆不敵 ハイカラ革命」だったら、「大胆不敵なハイカラ革命」か「私は大胆不敵にハイカラ革命をする」「私はハイカラ革命に対しても大胆不敵」と複数の解釈が出ただろう。もしここも「大胆不敵にハイカラ革命」と同じ関係なら、「私は磊々落々だ。さあ反戦国家」という意味になるが、確証は得られない(というのが本記事の趣旨)。

日の丸印の 二輪車転がし 悪霊退散 ICBM

ここでまず問題となるのは、「日の丸印の 二輪車転がし」と「悪霊退散 ICBM」の関係だ。「二輪車を転がす。そして悪霊退散」程度のニュアンスなのだろうか。それとも「二輪車を転がすことによって悪霊退散」くらいの強い関係なのだろうか。(なお、PVでは「二輪車」のところで初音ミクが自転車っぽいものを漕いでいるが、オートバイやキックスケーター、そしてセグウェイ二輪車ではある)

そして「悪霊退散 ICBM」だが、これも「悪霊=ICBM大陸間弾道ミサイル)」なのか、「悪霊退散にICBMを使う」なのか、あるいは「日の丸印の 二輪車転がし 悪霊退散」と「ICBM」で分けてほうが良いのかもわからない。(その場合、ICBMが宙ぶらりんになってしまうが)。

(ここで一息つく)念のため書いておくが、「わからない」のがよくないと批判しているわけでは決してない。「わかる」歌詞が面白いわけがない。

『千本桜』の歌詞は、インパクトのある名詞をポンと置いて、その名詞の間の関係を示さないのが特徴だ。この歌詞のわからなさというのは、単語によるヒントが少ないとか、比喩が遠回しすぎてわかりづらい、といった類のわからなさではない。同じ作詞者の『上弦の月』はこの曲に比べると文章が中心にはなっているが、初っ端の「花道を薄く照らして 寄木細工 音を奏でた」という部分など、『千本桜』の面影を強く感じる。

あと、同じメロディのところで似た発音を使う。「禅定門」と「環状線」はかなりきっちり韻を踏んでいる。あと、「千本桜」とか「断頭台」とか「光線銃」とか「閃光弾」とか「大団円」とか、「大胆不敵」「反戦国家」「少年少女」「三千世界」とか、「ン」を畳みかける感じが聴いていて気持ち良い。発音の響きをとにかく重視して、そのためだけに用語をひねっていたとしても全然不思議ではない。

これは私の憶測だが、この曲は(wikiの説明に反して)特定の世界観を前提にしたり、何らかの政治的意図をもって作られたものではなく、雰囲気的に相性の良さそうな言葉を韻や類語、同語で繋ぐというのが制作の軸だったのではないか。「千本桜」と「三千世界」の、サビの同じメロディでの「千」の反復や、同音の「反戦国家」「環状線」「戦国無双」「光線銃」「百戦錬磨」「禅(ぜん)定門」「閃光弾」という「せん(ぜん)」の徹底的な反復を見ていると、そう思うのである。

そう考えた上で、以下また不毛にも解釈を失敗し続ける。

(続き)

環状線を走り抜けて 東奔西走なんのその

ここはどちらも走っているという文なので、前後関係はなんとなく思い浮かぶ。

なお、「環状線」は路線が円になっているもので、山手線とかが主たるイメージ(厳密に言うとそうではない、と書いてあるネット記事も見かけた)だが、普通に走ったら円の中をぐるぐる回るだけなので、東奔西走できない。円の外側に突っ切るイメージだろうか。

少年少女戦国無双 浮世の随に

「浮世の随に」は倒置法で、「浮世の随に、少年少女(が・の・による)戦国無双」だろうか。それとも、「浮世の随に 千本桜 夜に紛れ」と繋がっているのか。

「少年少女戦国無双」=「浮世」と取ると、好戦的なのが浮世の風潮だと解釈できる。一方、「浮世の随に」「少年少女」が「戦国無双」だと取ると、戦争など省みない世で、少年少女だけが好戦的な状態だということになる。

千本桜 夜ニ紛レ 君ノ声モ 届カナイヨ

「千本桜」が「夜ニ紛レ」ているのか。それとも「千本桜」で一旦切って、「夜ニ紛レ 君ノ声モ届カナイヨ」がまとまって、「君」もしくは「君ノ声」が「夜ニ紛レ」ているのか。

「君ノ声モ」の副助詞「モ」は、「梨もりんごも美味しい」みたいに、類似したものを列挙する「も」だとすれば、「千本桜も夜に紛れてるし、君の声も届かないし……」と取れるし、「他の人の声も届かないし、君の声も届かないし」とも取れる。「猿も木から落ちる」というときのように、極端なものを取り上げて、それも例外ではないという「も」(猿だって木から落ちる)なら、「君の声だって届かない」と取れるが、これはちょっと微妙かもしれない。この「も」は、何かに長けている人を引き合いに出すことで、猿も木から落ちる、猿以外の普通人ならなおさら木から落ちるだろう、みたいに「それ以外」にフォーカスした表現であると考えられるからだ。これを歌詞に当てはめると「君の声だって届かないんだ。じゃあそれ以外の人の声なんてなおさら届かない」となるが、そんなニュアンスではないだろう。

あと、「君の声も」か「君の/声も」かによって意味が変わる。前者なら、「あいつの声も、そいつの声も、そして君の声も」となるし、後者なら「君の手も届かない、足も(?)届かない、そして声も届かない」となる。

「夜ニ紛レ」からの「君ノ声モ届カナイヨ」は、「二輪車転がし」からの「悪霊退散」と同じで、「夜ニ紛レ、そして君ノ声モ届カナイ」と、「夜ニ紛レたことによって(せいで)、君ノ声モ届カナイ」と異なるニュアンスで取ることができる。

なお、黒うささん作詞の曲『虹色蝶々』でも、突然カタカナの文が出てくるのだが、何の意図でそうしているのかはわからない。「~ヨ」のような台詞的な文章ではカタカナになっているのだろうかと考えたが、次の「見下ろして」の解釈に依る。

此処は宴 鋼の檻 その断頭台で 見下ろして

宴と鋼の檻の関係がいくつか考えられる。「此処は宴、そして鋼の檻の中でもある」「ここは宴、そんな中にも鋼の檻がある」「ここは宴、そしてあそこは鋼の檻」など。

「その断頭台」の「その」という指示語は、相手「あなた」「君」に近いものを指すときに使う。「君ノ声モ届カナイヨ」の「君」がいる場所が断頭台?

「見下ろして」は、「見下ろしてください」という、要求や願望なのか、「見下ろす、そして……」という接続の意味なのか。「見下ろしてください」の場合だと、先ほどのカタカナ=呼びかけ台詞説の反証となってしまう。しかし、一番の歌詞の最後は「打ち抜いて」であり、それに対応する二番の歌詞に「打ち上げろ」があり、これらは後者から判断して明らかに命令文であるので、やはりカタカナ=呼びかけ台詞説は間違っている、ということになる(この説が正しいなら「打チ抜イテ」となるはずだから)。

三千世界 常世ノ闇 嘆ク唄モ 聞コエナイヨ

並べられた単語間の関係を考えるという繰り返されてきたことを三千世界と常世の闇の関係において行いたいところだが、これは今までとは違う難しさがある。「三千世界」は仏教の言葉で、「常世」は神道古神道、日本神話)の言葉であるからだ。神仏習合が起こっているのだ。「三千世界」は大雑把に言うと仏教における全宇宙のことで、「常世」は古神道における死後の世界のことである。

これは、二番の歌詞「禅定門を潜り抜けて 安楽浄土厄払い」にも同じような意図した、あるいは意図せざる神仏習合が起こっている。「禅定門を潜り抜けて……」のところは、PVでは鳥居のイラストだが、「安楽浄土」とあるように「禅定門」は仏教のものなので、普通は鳥居ではない。また、厳密には「厄払い」は神社の言葉で、仏教の場合は「厄除け」だ。この神仏習合は意図したものか意図せざるものかは不明だが、神仏習合が明治時代に行われたことを考えると、あながち(一般的に想像されている)世界観とは矛盾していないといえる。

一方、「三千世界」は仏教の意味から転じて、一般的にこの世界のことを全て指して使うこともある。そうした用法の場合、神仏習合は起こっていない。また、「常世」も一般的な意味として永遠を指すこともある。この両方を採用すると、「この世界」「永遠の闇」という並びになる。ここでも「この世界(の)永遠の闇」なのか、「この世界(と)永遠の闇」なのかは決定できない。

 

嘆く唄も…については、「君の声も」で書いたのと同じなので省略する。

青蘭の空 遥か彼方 その光線銃で 撃ち抜いて

ここもやはり「青蘭の空(の)遥か彼方」か「青蘭の空(は)遥か彼方」か……など繋ぎの助詞はわからない。

そして、前後の繋がりとして、光線銃は青蘭の空を撃ち抜くのか、私を撃ち抜くのか、それともまた別の対象なのかはわからない。

ちなみに光線銃は、遊園地の​アトラクションとか子どものオモチャとして親しまれているが、実用化の例はまだ少ないといえる。また、あとで出てくる「閃光弾」はいわゆるスタングレネードで、光で相手の視力を一時的に機能させなくするもの(同時に音で聴力を奪うものもある)なので、殺傷能力はない。

 

これで一番の歌詞は終わりである。

そして本記事もここで終わりである。二番のことも今後書くかもしれないが、本記事の書いたことと同じようなことが延々と続くだろう。

 

 

余談「本当は怖い」「本当はエロい」系の考察はなぜ多いか

経験的な話として、ボカロの曲の考察的なものは、乱暴に言うと、だいたい「本当は怖い」「本当はエロい」のどちらかになりがちだ。

「本当は怖い」「本当はエロい」で私が前提としている考察の例は、以下のようなものだ。「本当は怖い」は例えば、『パンダヒーロー』の「カニバリズム」の意味だとか、『トゥイー・ボックスの人形劇場』の「キズネコトム」は戦闘機の名前だとか。「本当はエロい」は例えば、『聖槍爆裂ボーイ』の「0.02mmの壁」はコンドームだとか、『ギガンティックO・T・N』の「40口径乱れ撃ち」は射精だとか。(例に挙げているのが最近の曲じゃないのは、お許し願いたい。)

これに対し、いくつかの理由が考えられるが、まず一つ目に「エロ怖は隠すものだから」ということが考えられる。怖いものやエロいものは道徳上、隠すべきものなので、難しい言葉や比喩を使うなどして直接的な言及を避けるのだ。そのため、受け取り手は言葉の意味を調べたり、解釈することを求められ、考察の必要性が生じてくる。

二つ目の理由は、「そもそもボカロ曲にエロ怖系が多い」ということ。その背景には、「インターネットのもつアングラ的な性格(最近はそうでもないが)との相性の良さ」に加えて、「子どもが持つ、ライトなエロ怖を好みがちな傾向」が挙げられるだろう。。

三つ目に、「本当は怖い」「本当はエロい」は、いわゆる考察というものがやりやすい。これが例えば、

まとめると、①考察される曲にエロ怖系が多い ②そもそもボカロ曲自体にエロ怖系が多い ③エロ怖は考察がしやすい

 

先程「本当は怖い」で挙げた例に限れば、これらの「わからなさ」というのはいずれも知識の問題だ。こういった知識的な「わからなさ」は、大抵ググればわかる。そして、その検索の過程は謎解きや宝探しみたいに楽しめるし、上手く答えに辿り着ければ満足感を得られるし、優れたコメントや”考察”に反応することで、視聴者の間で連帯感を得ることもできるだろう。(おそらく一部のボカロ曲は、こうした視聴者の行動を促すよう設計されている。)

一方、「本当はエロい」で挙げた例では、知識に加えて、比喩的な解釈を必要とする。コンドームの厚さが0.02mmだと知っていたとしても、「壁」が、文字通りコンクリートとかでできた壁だと思っていたら、コンドームには辿り着かない。このように、エロには解釈作業が必要とされるため、より答えに辿り着くまでの難易度は高くなる。そのことは、「他の人(同年代の子供)にはわからないかもしれない」という優越感をおぼえさせる。

「本当は怖い」「本当はエロい」の曲の動画にて散見されるコメントに、年齢や学年(主に小学生)を書くものがあるが、これは優越感の表れであって、またこのコメントは直接同年齢の子供に訴えているのではなく、年上の視聴者に対して「その年上の視聴者が当の子供(コメントをする子供)と同年齢だった時間」に訴えているのである。そうした差異がなければ(つまり他の子どもと同い年なら)、年齢など書く必要はないし、年相応のものを見ているにすぎないのだから、優越感をおぼえることもない。

覚書:ラーメンズ 「超虚構」と「魔法」

ラーメンズの『バニーボーイ』(CLASSIC)で、片桐仁が「死ねばいいのに」と言う(小林賢太郎はこんな直接的なセリフ書きそうにないのでアドリブかと思う)シーンがあるが、その直後に自分でもびっくりしたように顔がひきつってるのが何度見ても面白い。その後も口を撫でたり眉をなぞったりせわしない。

ラーメンズの面白さは、テキストとしての面白さ以外では、神経質にコントロールされた演技と、その一方でコントロールしきれていない身体性が相互に立ち現れる部分だと思う。

ただし、コントロールしきれていないのは片桐仁ひとりの功績ではなく、コバケンの方もかなり貢献している。片桐さんは自分でも運動神経悪いと言っているけど、小林さんも運動神経はそんなに良くないんじゃないかと思う(少なくとも僕にはそう見える)。けど動けるように見せるのが上手いということだろう。それか苦手な動きをしないようにしているか。

小林賢太郎の極度に虚構性の強い演技にこそ、実は本人の身体性や人間性がよく表れていると思う。というかコバケンは、「嘘」という概念があまりにも好きなのか、何かを本当だと信じ込ませるために嘘を使っているというより、嘘をついていることそれ自体を見せているようなところがある。

広告批評』274号「ラーメンズ特集」(2003年9月号)で、小林賢太郎宮藤官九郎との対談記事で「ディズニーランドみたいになりたい」「超虚構、超正義が好き」と言っていて、インタビュー記事ではマジックに傾倒した思い出について語っている。

あの虚構性の強い演技に身体性や人間性と言う形で綻びが現れてしまうというのも、それが「魔法」(本当)ではなく「手品」(嘘)であるという点ではむしろ良いことなのかもしれない。手品で起きていることを信じ込ませる必要は全くないし、むしろそうなると手品として適切に鑑賞されなくなる。

でも、コバケンの言う「超虚構」はほとんど「現実」としての「魔法」とイコールだろう。これは虚構のパラドクシカルな性格で、つまり虚構は"信じる"と、信じるその人にとってはもはや現実になってしまう。トランプが消える手品は、実際にはトランプが消えていないからこそ手品として楽しめる。しかしトランプが消えたと信じるその人にとっては、トランプは現実に消えたのであって、それはもう「魔法」なのだ。

対談記事を見るに、コバケンが志向しているのは「手品」であって、それはあくまで作者と観客は騙しー騙され関係の中にあるものだった(「僕が客だったら、こういう騙され方をしたら絶対気持ちいい」)が、熱狂的なファンの一部は恐らく、騙されるのではなくて信じた。彼らにとっては「手品」ではなく「魔法」になった。小林賢太郎が言うようにコントを「商品」(「僕の中では、コントって商業なんです」2001.9)としてでなく、ロマンチックに受容して、その作者を「魔法使い」だと信じるファンはきっといるだろう。

そうした虚構のパラドクシカルな性格について、小林賢太郎は少なくとも記事の中ではネガティブな言及などはしておらず、本当に「超虚構」が成立すると思っている。しかし虚構がその効果を発揮すれば発揮するほど、それは現実になってしまうはずだし、現に一部ではそうなっているだろう。

宮藤官九郎は、破綻がないものは苦手と言ったうえで、ラーメンズにはどこか破綻しているところがあると指摘していて、それを台本の可変性という点で説明しようとしているが、僕は破綻しているのは「超虚構」という理屈、論理だと思っている。「超虚構」は成立し得ない。だが、破綻していないものに魅力なんてあるだろうか。

で、片桐さんの身体性がその「超虚構」というものを、あらかじめ虚構の時点である種、失敗させている。そしてその失敗によって作品が成功している。個人的には小林賢太郎より片桐仁のがよほど底が見えない人間だと感じるのだけど、それは底が無いからなのだろう。

片桐仁は、4年後の『広告批評』(2007年12月号)でこんなことを言っている。「自分のからだをうまくコントロールできないタイプなんです。興味を持つんだけど忘れちゃうんですよね。(中略)だから僕ほんとは、昨日生まれた人間なんじゃないかって。」この言葉に現れているのはまさしく有限性そのものだ。片桐仁に感じる底の無さは、つまるところこの忘れっぽさだと思う。

同号より。小林「そもそも、タレント性ではなく、脚本があるものに絞るってのは、この人〔片桐〕に合わせて始めたことなんですよ。(中略)最近ね、ラジオでパーソナリティなんかやり始めて。しかも、オレにひと言ないんですよ! おめえが縛ったんだろ、ラーメンズのルールは!……でも、忘れちゃってるんですよ。たぶん。そんな会話は。」
片桐「忘れちゃってる……。」

ちなみに、エレ片のラジオに電話出演した際のコバケンの妙な素っ気なさ(「ヘンギリさん」)も、ラーメンズのサイトを作ったことを片桐さんに知らせていなかったことも、恐らく片桐さんがラジオの件を小林さんに伝えなかったことの意図的なパロディだろう。でも多分、伝わってない。なぜなら忘れているからだ。

ファン的な言い方をすれば、片桐仁をあそこまで見事に活かすことができたのは小林賢太郎だけということになるのだろうが、しかし僕が思うのは、あらゆることを完璧にコントロールしようとする小林賢太郎の計算を、何の計算もなく狂わせ、裏切ることができるのは、性格が素直で台詞が覚えられて、しかし身体的なコントロールが苦手で忘れっぽい、片桐仁のような人物だけだろうと思う。前述したコント中の身体性という点でもそうだし、また事実上の解散ということも含めて、二人の組み合わせは素晴らしい。つまり、僕がこのコンビの魅力だと考える「意図せぬ有限性」が最大限に高まるとき、それは事実上の解散という形でしか現れなかっただろう、と思うのだ。

これは非常にアイロニカルなことだが、僕は人間の魅力というのはアイロニカルにしか現れてこないのではないかと思う。

広告批評』252号(2001年9月)より。小林「最初は、きっとなんかトリックがあるはずだと思って考えてたんですけど、結局、彼〔片桐〕は手品師じゃなかった。魔法使いというか、超能力者だったんです。タネがないんです。僕は手品師だから、全部タネがある。」

有限的な身体にこそ魔法が宿る。「超虚構」は、有限性を逆照射する装置としてはたらく。活動停止と事実上の解散は、有限性の見事な帰結だった。

うすた京介ギャグの"わからなさ" ~ジャガージュン市の詩『春郎』から見る修辞と対象の欠如~

はじめに

この記事が目指すのは、うすた京介のの面白いギャグがどう面白いのかを説明することではなく、うすた京介のギャグがどういうことを指向(※志向ではない。ここでは作者の意図は問題にしない)しているのか、そして既存の笑いの文法と何が異なるのかを論じることである。その手掛かりとして、『ピューと吹く!ジャガー』第21笛におけるジャガージュン市の詩論を参照する。

 

 

ジャガーの詩論

ピューと吹く!ジャガー』第21笛で、ジャガーがポギーの詩を否定し、自身の詩論を展開するシーンがある。要約すると、ポギーの詩は「わかりやすいようで実はわけわからん」から詩ではない。詩というのは、「わかりにくいようで実はよくわかる」ようでなくてはならない、というものである。

しかし、後者の例としてジャガーが即興で作った詩は「わかりやすいけど何だかよくわかんねぇ」とツッコまれる。

それに対しポギーは心の内で逡巡する。ジャガーの詩はわけわからんけど、「妙に印象に残る詩ではあった」。つまりあれは「わかりにくいようで実はよくわかる」詩だったのではないか? と。

ここで、ポギーの詩とジャガーの詩、そして「わかりやすいようで実はわけわからん」と「わかりにくいようで実はよくわかる」という形容について持論を交えつつ整理してみる。

 

ポギーの詩

ポギーの詩は、「わかりやすいようで実はわけわからん」とジャガーに否定されている。しかし、私にはそうは感じられない。むしろポギーの詩は「わかりにくいようで実はよくわかる」ものだと思う。

第21笛のポギーが「耳くそ」を表現した詩の最後の4行「耳に残る光のカケラは 砕け散ったダイヤモンド 初めて気づいた これは天使の贈り物…」だが、ここでは「光のカケラ」「砕け散ったダイヤモンド」「天使の贈り物」は耳くそを言い換えた表現、暗喩である。

比喩とは、何らかの対象aを別の対象bによって婉曲的に表現する技法であり、そして受け手が比喩を解釈するときは、bからaに変換する作業が必要となる。比喩は、単語a'によって対象aを示すという、我々が普段のコミュニケーションで使う表現よりも複雑、あるいは煩雑と言ってもいいだろう(だからこそ詩のレトリックとして成立している)。このように、言葉とその指示対象の関係の点でとらえた場合、ジャガーの詩の「春郎くんのお母さん」は「春郎くんのお母さん」以外の何者も示していないのに対し、ポギーの詩の「光のカケラ」は「耳くそ」という遠いものを指している(ハマーの「す…すごい!今のがホントに耳くその詩…!?」という感想は、この遠いものを比喩によって見事に結びつけたことに向けられている)のである。そしてこれは、言葉と指示対象の遠さという点で「わかりにくい」。なお、第20笛でポギーが登場した際、ポギーの詩に対してファンの女性たちは「何言ってんのか全然わかんない! わかんないけどなんかすごい! 雰囲気にごまかされてしまいたい!!」という感想を抱く。

一方、比喩という技法自体は一般に浸透しており、古典的で、下手に使えば陳腐でさえある。耳くそを題材にした詩において、「光のカケラ」が耳くそを示していることは、ある程度の言語能力を身につけている人間であればわりあい容易に理解可能である。その点で、ポギーの詩は「わかりやすい」。

この詩が「わかりにくいようで実はよくわかる」のか、それとも「わかりやすいようで実はわけわからん」のかを判断するうえで、「わかりにくい」と「わかりやすい」のどちらが先行するのかが問題になる。これは、詩の鑑賞経験から説明される必要がある。

(一般的な)詩を鑑賞するうえで、我々はまず、美しい言葉の響きを味わうだろう。ポギーのファンの女性の感想に乗っかって「雰囲気」と言っても良い。ポギーやピヨ彦がポギーの詩を美しいと思うのは、「光のカケラ」という響きによってであって、それによって婉曲的に表現されている「耳くそ」の方ではない。詩は、一般的な意味理解の仕方とは異なる仕方で受容されるからこそ言語芸術なのである。その意味で、ジャガーの言う通り、「わかりやすいようで実はわけわからん」のは良い詩ではないといえるだろう。そして「光のカケラ」という響きを味わってから、「耳くそ」が表現されていると解釈する。先述の通り、そこに「比喩」というレトリックがはたらいていることは容易に理解できる。

つまりポギーの詩は、ジャガーの言うことに反して、「わかりにくいようで実はよくわかる」詩なのである。それは言い換えると、「文の意味は文字通り受け取ることはできないが、何らかの対象が比喩という古典的な技法によって婉曲的に表現されていることは容易に理解できる(また、その対象も推測が可能である)」ということである。

ただし、後にポギーがジャガーの詩に対して逡巡する中で考える「わかりにくいようで実はよくわかる」とは意味が異なる。これについては後述する。

 

ジャガーの詩

ジャガーの詩は「わかりにくいようで実はよくわかる」のお手本として作られたものが、これはツッコミの通り、「わかりやすいようで実はわけわからん」詩である。以下、ジャガーの詩「春郎」の全文引用。

小学校の時

春郎くん家に行った時

春郎くんのお母さんが着てた

赤い水玉のシャツが

よーく見たら

赤い水玉じゃなくて

エビの絵だったのが

すごくイヤだった

なんかイヤだった

妙にリアルでイヤだった

さて 春場所も近いので

そろそろ稽古に行って来ます

先ほど見たポギーの詩のような比喩の技法は、ジャガーの詩には全く使われていない。この詩の文章は、小学生の作文のように簡単で稚拙な記述によって構成されている。単語a'によって対象aを示す日常的な、一般的な意味理解の仕方で容易に理解できる。その点でこの詩は「わかりやすい」。

一方、この詩が何を表現しているのかを理解するのは極めて難しい。なぜなら、恐らくこれは何も表現していないからである。それは「春郎」という固有名詞の使われ方に象徴的である*1。固有名詞ではただ一人の人物を指す。単語a'は固有名詞として、(「婉曲的」とは反対に)直接的に対象aを示す。つまり、「春郎」は固有名詞として、直接的に対象・春郎を示す。しかし、春郎とは一体だれであろうか? 少なくとも漫画の登場人物ではないし、現実に実在する人物を指しているわけでもないことは明らかである(ベートーヴェンの曲に、『エリーゼのために』という曲名がつけられたものがあるが、これは実在するエリーゼのために書いた曲であることが歴史的にも明らかであり、愛する女性のために書かれた作品であることは推測可能である)。そしてこのことを(独立した詩作品ではなく)ギャグ漫画という視点から説明すれば、春郎が誰だかわからないということが、ギャグなのである。なお、「耳くそ」といった一般名詞は一般名詞であることによって、対象の欠如の問題は生じ得ない。

この詩では、固有名詞の単語a'とその直接的な指示機能だけがあり、対象a(春郎)は実質的に存在していないという事態が起きている。日常的な言語運用の場面と異なるのは、対象の欠如であって、単語やその機能の仕方ではない。ここには何の修辞的操作も働いていない。このような存在しなさという点で、この詩は「わけわからん」ものである。

つまり、ジャガーの詩は、ジャガーの言うことに反して、「わかりやすいようで実はわけわからん」詩である。それは言い換えると、「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、単語によって指示されている対象の存在が実質欠如している」ということである。

しかしポギーはこの詩に対して、以下のように逡巡する。

あいつの詩ダメだったよな!? わけわかんねーし…でも妙に印象に残る詩ではあったな…

……アレ て事は「わかりにくいようで実はよくわかる」詩だったのか!?

いや…そんなバカな わかってはいない! 全然わかってはいないぞ!

ポギーはここで、「妙に印象に残る」ことを「よくわかる」と言い換えている。これは、一般的な意味理解という、先ほどの「わかる」の意味とはずれている。意味理解においては、ポギーや読者は確かにジャガーの詩を「わかってはいない」が、印象には残るということを、「わかりにくいようで実はよくわかる」と言っているのである。

 

うすた京介のギャグ

ジャガージュン市がギャグ漫画の主人公であり、役割としては「ボケ」である*2ことを考えれば、ジャガーの詩はうすた京介のギャグと同一視することが可能である。すなわち、うすた京介のギャグは「わかりやすいようで実はわけわからん」ものであるといえる。

対象の欠如は『春郎』に象徴的だが、作品全体を特徴づけているものでもある。『ピューと吹く!ジャガー』の最終話「めくるめけ、日々」では、ジャガージュン市が実は全身皮のようなもので覆い隠されていたことが発覚する。つまり読者が「ジャガージュン市」によって指示していたものは、実は全く別の姿をしていたのであり、その正体は描かれないまま終わる。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』のキャラクター「めそ」も、正体不明の生物が毛皮の中に入っていようだがその中身は描かれない。ジャガーの場合はある種、歴史修正的な仕方だが、『フードファイタータベル』の最終話は作品世界そのものがキャラクターによって"喰われる"というオチであり、こちらは事後的に対象を指示できないようにしている。『武士沢レシーブ』では最終話にして18年後の武士沢とトリ男がコンビニで再開するオチ(この急な時間経過と再会で割かれるのは2ページのみ)となっており、こちらは前者に比べると対象は維持されている(生存している)ものの、キャラとしては読者の知っていたものとは異なる姿になってしまっている。

基本的に、言語によってなされるギャグというのは修辞的操作に依っているものであり、うすた京介による、修辞的操作がなく、対象が欠如することのみによって成立するギャグは、一般的な技法としては恐らく成立していない。

同じく欠如によって成立するギャグに、いわゆる「ナンセンスギャグ」がある。non-senseは直訳すると「無意味」(意味の欠如)だが、ナンセンスギャグはそれが「ギャグ」として効果を発揮する以上、全くの無意味をただ描写しているのではなく、何らかの方法論があると考えるのが自然である。しかし日本の「ナンセンスギャグ」は散発的で全体像が見えにくいため、ここでは歴史のある英語圏のナンセンス文学のナンセンスユーモアについて書く。

 

 

ナンセンスギャグの内容

以下は、英語圏におけるナンセンス文学の作家として知られているEdward LearのA Book of Nonsense (1846)にあるリメリックである。

There was an old man who said, “Hush!; I perceive a young bird in this bush!"; When they said, “Is it small?"; He replied, “Not at all!"; It is four times as big as the bush!”

 

(拙訳)ある老人が言った「静かに!この茂みの中に幼鳥がいるのだ!」彼らは言った「小さいのか?」彼は答えた「とんでもない!茂みの四倍の大きさだ!」

この作品で欠如しているのは、老人の話す内容の一貫性である(茂みの中にいる幼鳥が、茂みの四倍の大きさであることは普通あり得ない)。つまり、それぞれの文の意味は明瞭で理解可能だが、複数の文の間にある一貫性が欠けている。ジャガーの詩=うすた京介のギャグが「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、単語によって指示されている対象の存在が実質欠如している」であるとすれば、このナンセンスギャグは「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、複数の文の間にある論理的な一貫性が破綻している」といえる。

「茂みの中にいる幼鳥」と「茂みの四倍の大きさの幼鳥」は、一つの像を結ばないため、対象の存在の不明瞭さではうすた京介のギャグと同様である。しかし、幼鳥の詩の場合、一つであるはずの対象が複数存在してしまっているために対象の姿が不明瞭になっているのであり、確かに一つの対象しか指示し得ない固有名詞が、上手く指示関係を結べていないというジャガーの詩とは異なる。また、欠如の不明瞭さの原因は、前者では論理関係だが、後者はそうではなく(しいて言えば)指示関係という点でも異なる。

 

ナンセンスギャグの方法

Edward Learのナンセンス詩で注目すべきは、会話体であることによって作られている間(ま)と、老人の台詞に見られる妙な必死さ(感嘆符の多さ)、そして老人の台詞で終わるという詩の終わり方(老人の台詞がオチであることがわかる)である。これらの方法によって、非一貫性について作品内で明言しなくとも、この非一貫性がユーモアであることが鑑賞者にはわかるようになっている。

一方、うすた京介のギャグ漫画、とりわけ『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』『ピューと吹く!ジャガー』『フードファイタータベル』といった連載作品に特徴的なのが「ツッコミ」である。これらの作品のツッコミ役であるフーミン、ピヨ彦、ウマミチは外見や口調に明らかな類似が見て取れ*3、似たツッコミの型が複数の作品で反復されていることがわかる。

彼らのツッコミは、非常にベタな種類のツッコミである。それは、ボケによって為されるまたは話される異常な事柄が異常であることのリアクション(指摘)と記述、そしてなぜそれが異常であるかの解説である(例えば『ピューと吹く!ジャガー』第262話ピヨ彦の長いツッコミ「「つってね」じゃないだろ―――!! ドアバキバキに壊れちゃったよ!!」「ドアはあるのにドアノブが無い店ないし ウエストポーチにハミちゃん入んないし ドアに思いっきり刺してるし 実際ウチのドア壊しといて「イッケネヘエ~~イ」じゃ済まねえから――――――!!」)。

こうしたツッコミによるボケの伝達方法は、Edward Learのナンセンス詩の明言せずにユーモアをそうと伝える方法とは大きく異なる。

以上のことから、うすた京介のギャグはナンセンス文学のナンセンスユーモアとは異なるものだといえる。

 

おわりに

冒頭で、この記事が「うすた京介のギャグがどういうことを指向しているのか」と、「既存の笑いの文法と何が異なるのか」について論じることを目指している、と書いた。その答えを極めて簡潔にまとめると、それは「修辞と対象の欠如」である。また、ナンセンスユーモアとは異なり、そのギャグはツッコミによって伝達される。

今後の課題として残るのは、「修辞と対象の欠如がなぜ笑いにつながるのか」である。これを、うすた京介の漫画に度々登場する「布・皮・服」のモチーフにつなげて説明するということをいずれ試みようと思う。

 

*1:第67笛のジャガーの詠んだ俳句「春池や 吉川ひさしと 前田ジュン」でも固有名詞は鍵となっている。

*2:このことは、第182笛「「ツ」のつくアレを込め!」でも自己言及されている。

*3:ピューと吹く!ジャガー 公式ファンブック ふえ科自由研究』のコーナー「ジャガーの原点!?  うすた作品大集合!!」で、「主人公に振り回されるフーミンがピヨ彦にどことなくソックリ!!…とも言われているらしいぞ」と書かれている。また、この本の巻末に掲載された「ピューと吹く!すごいよ武士沢」では、ジャガーマサル&武士沢が同時に同じボケをし、それに対しピヨ彦&フーミンが同時に同じツッコミをして、互いに親指を立てる描写がある。

コメディにおける「物語」の破壊~ハートフルコメディとハードコアコメディ~

コメディというジャンルを愛好する者なら、以下の二つのうちどちらかを経験したことがあるかもしれない。

①ハートフルな筋立てに感動的なハッピーエンドを期待していたのに、非合理的な展開が最後まで続いた挙句に主要人物が報われない終わり方をして、釈然としないあるいは胸糞悪くなる。

②主要人物がハプニングに振り回されて散々な目に遭い続けるのを期待していたのに、後半から教訓めいた話になって、最後は"感動的"なハッピーエンドで終わり、反吐が出る。

 

この記事では、

①の人が期待していたようなコメディ作品を「ハートフルコメディ」、

②の人が期待していたようなコメディ作品を「ハードコアコメディ」と呼ぶことにする。

 

 

1. ハートフルコメディとハードコアコメディを区別する「物語」

ハートフルコメディとハードコアコメディを区別するのは「物語」に対する態度(「物語」の肯定/否定)だが、まず「物語」とは何かを言わなければならない。この記事で「物語」と書くときは、おおむね「フィクション作品における、高揚した感情(ここでは主に感動)を喚起させる内容や形式」を指していると思ってほしい。そして「物語性」と書くときは、「高揚した感情を喚起させる性質」のことである。また、この「物語」における「感情」は生理的なものというより道徳的なものであって、笑いのような生理的反応とは区別する。

絵画で例えると、ロマン主義の画家ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の物語性は高いが、モンドリアン抽象絵画『赤・青・黄のコンポジション』の物語性は極めて低い。音楽で例えると、ロマン派であるワーグナーの『ニーベルングの指輪』の物語性は高いが、十二音技法を用いたシュトックハウゼンの『グルッペン』の物語性は極めて低い。

結論から書くと、筆者の考える「笑い」は秩序の破壊を伴うもの(このことについては別の機会に書く)であり、ハードコアコメディではこうした「物語」も破壊対象である。しかしハートフルコメディはこうした笑いの破壊的な性質を生かしつつ、「物語」は破壊せず保存する。

 

2. ハートフルコメディの特徴

ハートフルコメディは「物語」「物語性」を活用したプロットを特徴とする。私は以下の妄想によって、ハートフルコメディの特徴を説明したい。自分の創作した概念を、自分の創作したプロットで説明するのは馬鹿げているが、特徴を羅列するよりも話が早いのである。

ドラマ映画の傑作『ショーシャンクの空に』がもしもハートフルコメディだったら、どうだろう? 例えばこうなるかもしれない。

貧しい主人公(アンディ)が自殺を図るが、ふと窓の外にアイスクリームスタンドを見つけ、死ぬ前にあれを食べようと考える。家に金は無く、預金の全額である1ドルを引き出しに銀行へ行く道中、車がはねた泥で主人公の服と眼鏡が真っ黒になる。最悪の気分で銀行に入ろうとすると、黒ずくめの服にサングラスをかけた銀行強盗たちが警察に追い立てられているところで、一緒に押し出されてそのまま護送車に詰め込まれてしまう。他の強盗たちが罪を認める中、当然無罪を主張する主人公。その態度が裁判で不評を買い、最終的に終身刑を宣告される。個性豊かな強盗達(反資本主義者の革命グループだと判明する)は同じ刑務所に収監され、最後まで自白しなかったアンディを革命のリーダーとして忠誠を誓い、自己紹介ついでに役に立たなそうな特技を披露する。刑務所には、窓の外にいたアイスクリームスタンドの店主もいて、彼は無断で路上に店を開いたとして、不当に長い刑期で収監されていた。「死ぬ前にアンタの店のアイスクリームを食べようと思っていたんだ」「俺の店のアイスを食べたら死のうだなんて馬鹿な考えは消え失せちまうぜ」など会話を交わしたりなんだりして彼とは相棒的な存在になり、なんやかんやあって脱獄することになり、様々なハプニングが起こるが、例の強盗達の特技によって受刑者全員(皆冤罪か真っ当な思想犯)が脱獄し、はずみで刑務所長が部屋に貯め込んでいた現金も外にばら撒かれ、お陰で不正蓄財がバレて所長は逮捕される。主人公の冤罪も明らかになる。主人公はようやく1ドルを引き出してアイスを食べ、これらかも生きていくことを誓うのだった。

(なお、主人公が『フィガロの結婚』を流すシーンは、もっと陽気な音楽、例えば70年代のディスコ曲、あるいはラップで受刑者たちが冤罪になった経緯をノリノリで歌うことになるだろう。)

この創作物を『ショージャンク(show junk)の空に』と名付けるとして、これを例にとって説明すると、ハートフルコメディでは、笑いの要素を入れつつ、「生きていくことへの希望」といった道徳的なメッセージを示すことが可能である。

ハードコアコメディとの区別においては、そこで機能している笑いが何を破壊し、何を破壊せず保存しているのかに注目することが必要だ。ハートフルコメディにおいて破壊されているのは、古典的な物語機構、すなわち論理的な因果関係である。『ショージャンク(show junk)の空に』で主人公がアイスを食べようとして結果的に逮捕されたことを、夏目漱石の小説を考察するような身振りで考察することはナンセンスである。

一方、ハートフルコメディで保存されているのは先ほども書いたように道徳的なメッセージであり、そこには「物語」が依然として残っている。これについては次の「3. ハードコアコメディの特徴」で書く、ハートフルコメディによる「物語」破壊の様態によって相対的に明らかにしたい。

 

3. ハードコアコメディの特徴

ハートフルコメディと比較したとき、ハードコアコメディの特徴は「物語」の徹底的な破壊である。『ショージャンク(show junk)の空に』をハードコアコメディにすると、ラストは例えば次のようになる。

脱獄した挙句にアイスが不味すぎて死亡。

この記事の最初に、ハートフルコメディを期待する人がハードコアコメディを鑑賞した際の心情について書いたが、ハードコアコメディはある種の「胸糞悪さ」を感じさせることすらある。タランティーノ監督がモンティ・パイソンの『人生狂騒曲』に含まれるスケッチ(コント)の一つに対して形容したように、"nauseous"なものである。*1それが胸糞悪いと感じるのは、「物語」の破壊によって道徳が破壊され、どこまでも生理的だからである。

他のフィクション作品に典型的な「物語」をパロディ的に借用してそれを破壊することもあれば、最初から壊すべき「物語」を持たないものもある。その代わりに現れるのは「シチュエーション」であり、いわゆるシチュエーションコメディ(シットコム)の形態をとる(ちなみに、ローレル&ハーディやバスターキートンらの短編コメディ映画はシットコムの初期形態だと筆者は見ている)。この両者はそれぞれ「ハードなハードコアコメディ」と「ソフトなハードコアコメディ」というべきものだが、話が複雑になるので本記事では深追いしない。

なお、モンティ・パイソン作品、特に『人生狂騒曲』のスケッチ群は、「人生の意味とは何か」をテーマに掲げながら人生の意味どころかその問い自体を無効化していく「ハードなハードコアコメディ」の一つだが、これをホラーと区別するのは、ハートフルコメディと区別するよりも難しい。笑いと恐怖は、生理的な反応という点で似ているからである。

ハートフルコメディとハードコアコメディの区別に話を戻す。この両者の違いはオチによってはっきりすることが多く、オチによって遡及的に「物語」に対して作品のとる態度が明確になる。しかし長編コメディ作品でこのようなオチを用意している作品はほとんどなく、ハートフルコメディは長編作品に、ハードコアコメディは短編作品になりがちな傾向にある。これについては次の「4.「物語」と尺の長さ」で詳しく書く。

 

4.  「物語」と尺の長さ

連続モノの短編ハードコアコメディ作品が人気のために長編映画になると、ハートフルコメディに似るのはよくあることだ。『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザムービー』『クレヨンしんちゃん』の映画作品*2がそうである。

また長編映画でなくとも、連続テレビ作品はスペシャル回になるとやはりハートフルコメディに似てくる。『The Office』のクリスマススペシャル、『スポンジ・ボブ』の「クリスマスってだれ?」、『おっはよー!アンクルグランパ』の「アーント・グランマの逆襲」など。

この謎については色々考えたのだが、長い尺というのは「物語」を必要とするのではないか、という仮説に今のところ落ち着いている。「物語」が長い尺を必要とするのではない。その逆である。また夏目漱石を例に出すが、『こころ』があんなに"深い"作品になったのは、長い(長期連載作品である)からである。深い作品だから長いのではなく、長いから深くなったのだ。

つまり、ハートフルコメディが長編作品に多いというよりは、長編作品がハートフルコメディにするのだという仮説である。これには、雑な言い方をすれば、長い間観たからには道徳的な教訓を得たい、得た気になりたい、少なくとも既存の道徳観に当てはまるものを見てすっきりしたいという観客の需要もあるだろうし、笑いに比べて「物語」の形式の方が冗長さが許されるので間が持つという脚本家の需要もあるだろう。

しかし、長編になるとハートフルコメディに近づくとはいえ、いくつかの長編ハードコアコメディ作品では、「物語」や、「物語」化している当の作品への批判的意識を垣間見ることができる。

『スポンジ・ボブ』の長編映画『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザ・ムービー』では、海賊(実写)たちが映画館でこの映画を観ているというメタ設定が最初から提示されるが、これによってスポンジボブたちの「物語」と観客の間にワンクッション挟まれる。そのうえ、スポンジボブとパトリックが死の危機に瀕するという"泣ける"シーンで海賊が号泣にむせぶ映像が挟まれ、二人が危機から脱すると、海賊たちは映画館で大袈裟に喜ぶ。観客の「感情」は、映画内観客の「感情」がコミカルに描かれることで純粋な形式としては破壊されるのである。

このようにして長編ハードコアコメディ作品は、様々な手法を通して「物語」と格闘する。

 

おわりに

本記事では、「ハートフルコメディ」と「ハードコアコメディ」という二つの造語によってコメディの分類を行った。

①「物語」と「感情」と「道徳」の関係 ②笑いが「秩序」を破壊するとはどういうことか ③ハードなハードコアコメディとソフトなハードコアコメディの区別 ④長編ハードコアコメディ作品が「物語」と格闘するときの手法 などについては今後書くかもしれないし、書かないかもしれない。

また、この記事では英米のコメディ作品を念頭に置いていたが、日本のコメディのことも書きたい。特にキングオブコント決勝において披露されたコントの「物語」に対する態度がいかなるものかについて。

それと以前このブログで、カートゥーンアニメと日本のアニメのリップシンクの事例を並べて比較検討する記事を書いたのだが、そこで少し触れた手塚治虫のアニメの影響というものが、日本でカートゥーンアニメ的な文法があまり受容されていないことに現れているのではないか(日本のアニメキャラの身体は不死性がなくなっていった)、なんてことも考えている。これもいずれ書きたい。

 

最後に、ハードコアコメディは本文中でいくつか実在の作品を挙げたがハートフルコメディでは架空の作品しか書いていなかったので、具体例を列挙しておく。これを最後に持ってきたのは筆者の浅学を隠すためである。

・『トイストーリー』シリーズ、『カーズ』シリーズ、『ファインディング・ニモ』などピクサー作品

・『ミニオンズ』シリーズ、『SING/シング』『グリンチ』などイルミネーション作品

・『パディントン』『パディントン2』

・『チャーリーとチョコレート工場

・『ミクロキッズ

・『The Mask』

・『星の王子、ニューヨークへ行く』

・『隣のリッチマン』

……など

 

 

 

最後の最後に、すべてのコメディ作品がハードコアコメディとハートフルコメディという区別に当てはまるわけではないことを付け加えておく。例えば喜劇王チャップリンの作品がそれである。ゆえにこの区別は、明らかに欠陥がある。

 

*1:タランティーノ監督のコメントはこちら。

Tarantino shocked by Python scene

筆者もこの作品に関しては文章にするだけでnauseousので詳細は割愛する。Wikipediaの『人生狂騒曲』の記事にそれぞれのスケッチの構成と粗筋が記載されているので、それを読んでいただきたい。「パート6」である。

*2:アニメ『クレヨンしんちゃん』に関しては家族愛を題材としたハートフルなエピソードも複数あり、ハードコアコメディに分類するか迷ったのだが、日本の子供向け連続コメディアニメとしては珍しく比較的ハードコア路線を維持しており、映画でも後に書くような「物語」との格闘が見られる作品があるため、ハードコアコメディとして分類した。

アニメ描写比較考 ~日本とアメリカのアニメにおける舌の動き~

こんなブログ記事を見つけた。

 

ppgcom.gooside.com

 

この記事では、アメリカのアニメにおいてキャラクターの唇の動きがいかに重視されているかについて指摘している。その一例として、パワーパフガールズの口の動き12種類を実際に抽出して並べているが、これがすごく面白い。口の開き具合の大小のみならず、下唇を噛む絵(〈F〉か〈V〉の発音)そして舌を上の前歯にくっつける絵(〈L〉の発音〉がある。

 

パワーパフガールズほどデフォルメされたアニメですら、いやそれゆえになのか、口の動きは非常に詳細にそして正確に描写されているのだ。

例えば↑の1:15あたりのバターカップの台詞、〈prepare for an adorable beatdown〉の〈for〉でやはり下唇を噛む絵があり、〈adorable〉で舌が上顎にくっつく絵が使われている。

 

パワパフだけではない。例えば、これもかなりデフォルマチックな絵柄だが、『おかしなガムボール』(The Amazing World of Gumball)。以下は第108話"The Safety”の冒頭である。

最初のシーンでガムボールたちのママが喋っているが、ここでも0.25倍くらいで再生すると、例えば〈fish〉の〈f〉で下唇を噛む絵、〈milk〉の〈l〉で舌が上顎にくっついた絵があてられている。

 

次に、『スポンジ・ボブ』(SpongeBob SquarePants)。この作品ではキャラクターの口が大きく描かれているので特にわかりやすい。

最初に歌うシーンがあるが、〈Getting clean〉の〈t〉と〈l〉、〈la la la ……〉で舌が上顎にくっついているのがよくわかる。そして髪を剃った後の〈Perfect!〉の〈f〉で、スポンジボブの二本の前歯が下唇にしっかり刺さっている。

 

こうした口の描き方が戦前のフルアニメーションから既に現れていたことを示す証拠として、ワーナーブラザーズの『ルーニー・テューンズ』作品の1939年のエピソード、"Daffy Duck and the Dinosaur"を紹介する。

かなり昔の作品でありながら、ダフィーダックも原人ももはや過剰といえるほどに舌がべろんべろん動いている。

 

そして忘れてはならないのがこの作品。

後のアニメーションに多大な影響を与えたディズニーの"Snow White"(1937)である。1:10頃、緑の帽子をかぶった小人が〈She is beautiful. Just like a angel.〉と言うが、〈beautiful〉の〈f〉と〈like〉の〈l〉において舌の動きがしっかり描かれている。白雪姫は口が小さく見づらいが、〈little men!〉という台詞の〈l〉のときに舌が上顎についている。

 

ちなみにトーキーアニメの最初の作品と呼ばれている(実際にはその前にもあったらしい)ミッキーマウスが主人公の『蒸気船ウィリー』(1928)では、ミッキーたちは言語を使わないが、オウムらしき鳥が笑うとき、舌がべろべろ動いている。ただ、果たしてこの笑い声を発音する際に舌を巻くことがあるかは疑問。

 

そして『ルーニー・テューンズ』の戦後に作られたエピソード、"Duck Amuck"(1953)でもやはり口の動きは忠実に描かれている。

※ちなみにこの作品では、ダフィーダックが第4の壁を越えてアニメーターに不満を言うという斬新な表現が行われている

 

1960年代には、ハンナ・バーベラ・プロダクションからリミテッドアニメーションが登場する。

その一例が、1960年の"The Flintstones"。現在の連続アニメにだいぶ近づいている印象があるが、それでもやはり舌の動きにはこだわっているのがわかる。

 

そして最後に、時代下って2003年~2006年に放送されたアメリカの連続テレビアニメシリーズ『ティーン・タイタンズ』("Teen Titans")を見てみる。これはキャラクターの造形や演出面において日本のアニメーションに大きく影響を受けたとされる作品だが、

www.youtube.com

開始0:50頃のビースト・ボーイ(緑色の肌の少年)と、スターファイアー(赤い髪の少女)が喋るシーンでの口の動きに注目すると、やはりここでも〈f〉で下唇を噛み、〈l〉で舌が上顎にくっついている。絵がジャパニーズスタイルであるだけに、この描写は興味深いものがある。

 

以上の例からわかるのは、アメリカのアニメでは口の動きが発音に対し忠実であり(特に〈f〉と〈l〉において顕著)、その結果として舌が口から独立して動くという特徴が伝統的に存在しているということだ。

 

 

一方、日本のアニメでは口の動きは、というか口自体がシンプルに描写される傾向がある。なお、日本語の発音では〈f〉のような口の動きがそもそもないため、以下では主に「ら行」そして「た行」における舌の動きに注目してみることになる。

 

最初に挙げるのは『君の名は。』の予告編動画である。開始1分頃に「入れ替わってる!?」のシーンがあるが、このセリフには「れ」「て」「る」という、舌を上顎につけて発音する音が3つ出てくるので、そこに注目して見てみる。

すると、舌はずっと下にくっついたままである。これを現実にやって見ると「いえかわっえう!?」となる。それだけでなく全体的に口の動きがあまり一致していないようにも見える。

 

比較的しっかり口の動きを描いているアニメーションに、『涼宮ハルヒの憂鬱』12話の「God knows...」のアニメーションが思いついたので確認すると、確かに開閉という点ではよく動いているが、やはり「た行」や「ら行」でも舌が下にくっついたままになっている。

しかし、肝心なのは舌が本来の発音に対して忠実かどうかよりも、舌の描き方そのものだろう。

 

日本のアニメでよく見るのが、舌が逆さのお椀型になっていて、舌とそれ以外が二色で塗り分けられているという描き方だ。そして口の中はその絵で固定され、口の開閉具合のみで喋りを表現する。ドラえもんの口、と言えばわかるだろうか(ただ逆お椀型でなく、クレヨンしんちゃんのケツ型になっているときもある。なおクレヨンしんちゃんは一色ベタ塗りで舌がない)。ポケモンプリキュアなどの場合はさらに舌の影も入って三色で描き分けられている。

 

つまり、日本のアニメの多くでは、口と舌が互いに独立していない傾向にあるのだ。

 

ここで、古い作品を見てみる。1934年のトーキーアニメ、『ポン助の春』。

animation.filmarchives.jp

1:30頃に、ポン助の想像の中で、父タヌキが「ははは」と笑っているが、そのとき舌がぐにょんと動いている。先程見た『蒸気船ウィリー』のオウム?が笑っているのと似た動きだ。その絵柄やモーションからは、まだアメリカのアニメの影響が強いように感じられる。

 

次は1940年代、戦時下に公開された映画である。

『桃太郎 海の神兵』(1945)。猿の兄弟が会話をする5:20頃に注目。アメリカの作品ほど顕著でないものの、口から舌が独立して動いていることがわかる。

 

次に1963年のアニメ、手塚治虫による『鉄腕アトム』を見てみる。開始3分頃の天満博士の独白シーンに注目。

鉄腕アトム』を始めとする手塚アニメは、日本におけるリミテッドアニメーションの生みの親的な位置づけにあるが、日本初のテレビアニメシリーズである本作品からはその方法がよく見て取れる。

重要なのが、舌が口から独立しておらず、口の開閉具合で喋りを表す描き方である。このあたりから、現代まで続く口と舌の描き方が確立していったのではないだろうか。つまり、手塚アニメが日本アニメとアメリカアニメの口の描写方法を異なったものにしたその分岐点となったのではないか、という仮説である。

 

事例検証は以上にしておこうと思う。

私がこれらの例を挙げたことによって指摘したいのは、アメリカのアニメと日本のアニメの口の動きの描写には差異があるということである。具体的には、アメリカのアニメでは舌が口から独立して動き、日本のアニメでは舌が口から独立していないということ。

そして日本のアニメがそうした描き方をする理由の一つとして、手塚治虫のリミテッドアニメーションの影響が挙げられる。また、最初に挙げたブログでは制作プロセスの違いと、そもそも英語と日本語の発音上の違いを挙げており、それらも理由として有力だと思う(特に英語では、RとLは区別しないとならないため描き分けが必要だというのは言うまでもない)。

 

さらに私としては、アメリカのアニメーションで口の動きが詳細に描かれる理由として、アメリカというかキリスト教的世界観由来の言語運用能力の重要性を挙げてみたいと思う。

『創世記』は言葉即存在という世界観である(「神は言われた。光あれと。こうして、光があった。」)。神の理性としての言葉は、神にかたどって創造された、神の意志を遂行する使者としての人間もまた、具体的な言語(日本語、英語、ヘブライ語……)という形で用いているが、こうした世界観の中では言葉がいかに重要であるかがよくわかる。

 

とはいえ私は神学に明るくないし(上のはおおよそアウグスティヌスの説からのみ考えている)、これとアニメーションの口の動きとの関係は立証できないので今のところ机上の空論でしかない。しかし、キャラクターが言語的存在であることの意味については色々考えるべき点があると思っている。

 

アメリカ以外にも、ヨーロッパのアニメ、そして日本以外のアジアのアニメではどのように描かれているかについては今後の課題とした。

 

ちなみに、ドイツのアニメ "Benjamin Blümchen"でも、やはり〈l〉では舌を上顎にくっつけている(7:00頃の男の子の〈bleiben〉。

 

 

 

 

 

・2021.7.6 大幅な加筆と修正(アメリカのアニメから"Snow White", "Duck Amuck" , "The Flintstones"を、日本のアニメから『桃太郎 海の神兵』を追加し、『鉄腕アトム』はオリジナルのほうに変更。全体の議論を、発音に対する舌の描写の忠実さよりも、口に対する舌の独立という方向へ変更。)

・2021.10.3 加筆(アメリカのアニメから『ティーン・タイタンズ(Teen Titans)』を追加。)