ギャグ・アニメ・身体(仮)

主に映像について。

『千本桜』の歌詞考察は決してできないということについて

「大胆不敵にハイカラ革命……」と頭の中で歌っていたときに、ふと、そういえばこの曲ってどういう世界観なんだろう?と気になった。

「千本桜 歌詞 意味」と検索すると、予想に違わずわんさか出てくる。でも、見た限り決定的な解釈はなさそうだ(だからこそ考察欲を掻き立てるのだろう)。

おおむね一致しているのは、明治時代か大正時代あたりの世界だろう……ということくらいで、あとは政治的な解釈として、その時代の風潮を批判する(作詞者の立場というより、物語の設定として)ようなニュアンスだろう、といったもの。

一応、「千本桜(曲)」のwikiでは以下のように書かれているが、出典は書かれていないので、これも一つの考察に過ぎないと言わざるをえない。

歌詞は、明治維新後の西欧文化を取り入れた時代を舞台とし、現代を諷刺する暗喩的な内容である。投稿されたニコニコ動画の映像は、大正浪漫の雰囲気を醸し出しており、カラオケでも同映像が使用されている。

この記事では、そういった考察を改めてするのではなくて、考察がなぜこんなにまとまらないのか、決定的な考察が成立しないのはなぜか、について、言葉の構造的な面から考える。

先に書いておくと、この記事は『千本桜』歌詞のメタ考察というより、「文の解釈というものがいかに一つに決定できないか」の面白さにフォーカスしており(というか書いていくうちにそうなった)、とりわけその面白さがよく味わえるのがこの『千本桜』である、というような位置づけをしているので、読む際にはそのことに留意していただきたい。

※言及は一番までで終わっています。

まず最初の部分。

大胆不敵に ハイカラ革命

多くの考察は、この「ハイカラ」という言葉で、「明治か大正かな?」くらいに漠然と見当を付けているのだと思う。ハイカラという言葉が使われ始めたのは明治時代(ブリタニカは初出を1900年頃と説明しているが、Wikipediaでは1898年説を推している。いずれにせよ明治時代)だ。ちなみに、「はいからさんが通る」の舞台は大正時代。一応、wikiの説明によると、「ハイカラ」という言葉は昭和初期(戦前)までは原義に近い意味で使われていたそうだ。しかし『千本桜』の舞台が「昭和」だと考察している記事は、私の見た限りではなかった(PVには東京タワー(1958年誕生)が描かれているので、昭和だと解釈する人がいても不自然ではないと思うし、見つからなかっただけできっといると思う)。考察といっても、大体自分の持っているイメージを基に判断しているのだろう。

※なお、この楽曲を基にした派生作品(小説、舞台など)に加え、PVも歌詞の解釈の根拠になるかというと、ちょっと微妙だと思う。イラストを担当している一斗まるさんが絵を制作するにあたって、作詞者の黒うささんがどれくらい関与しているかがわからないからだ。「ここはこういう意味で……」と説明したかもしれないし、「曲を聴いてイメージしたものを自由に描いてください」と依頼したかもしれない。そこがわからない限り、PVの絵も歌詞の意図を直接表しているというよりは、作品解釈を基にした二次創作だと捉えておいたほうが良いだろう。

他に、「明治維新から終戦くらいまで」など、元号を特定しておらず、漠然と戦前あたりを色々折衷しているのでは、といった考察も可能だろう。

(ここからが本題)しかし、上に挙げたのはいずれも、「ハイカラ」という単語の意味や使用例を基にした時代の推定である。しかし実際の歌詞で歌われているのは「ハイカラ」ではなく「ハイカラ革命」だ。「ハイカラ+革命」の造語だが、これが「ハイカラをシンボルとした革命」(似た用例:オレンジ革命)なのか、「ハイカラさんによる革命」(用例:青年トルコ人革命、ウラービー革命)なのか、「服のハイカラに革命が起こった」(用例:価格革命、科学革命)なのか、わからないのだ。

例えば、ハイカラをシンボルとした革命だったり、ハイカラさんによる革命なら、令和の時代にいわゆるハイカラさんの恰好をすればそれは「ハイカラ革命」と呼べるだろう(例えば、戦前文化を取り戻せ的な運動が考えられる)。少なくともハイカラ概念が誕生以後であれば、「ハイカラ革命」は可能だ。この歌詞全体の文脈を踏まえないと、「ハイカラ革命」の意味は取れないし、時代もわからない。しかし最初に書いたように、歌詞の”正しい”考察は無理だというのが本記事の結論なので、この造語の意味は結局わからない。

磊々落々 反戦国家

「磊々落々」(小さいことを気にせず朗らかに、の意で、「磊落」の強調した形)と「反戦国家」という二つの言葉が並んでいる。「磊落(磊々落々)に笑う」という風に形容動詞として使われたり、「豪放磊落」「磊落不羈」など四字熟語の中に入っていたりする。

しかし、この二つの言葉の意味が論理的にどう繋がっているかは決定しようがない。「磊々落々たる反戦国家」なら、「小さいことを気にせず朗らかな反戦国家」みたいな意味になる。しかし、「私は磊々落々」みたいに主語の省略として解釈すると、また話が変わってくる。「私は磊々落々だ。さあ反戦国家」(小さいこと=反戦国家を妨げるもの)とも取れるし、「私は磊々落々だ。反戦国家に対しても」(小さいこと=反戦国家やその風潮)とも取れる。

もし「大胆不敵にハイカラ革命」が「大胆不敵 ハイカラ革命」だったら、「大胆不敵なハイカラ革命」か「私は大胆不敵にハイカラ革命をする」「私はハイカラ革命に対しても大胆不敵」と複数の解釈が出ただろう。もしここも「大胆不敵にハイカラ革命」と同じ関係なら、「私は磊々落々だ。さあ反戦国家」という意味になるが、確証は得られない(というのが本記事の趣旨)。

日の丸印の 二輪車転がし 悪霊退散 ICBM

ここでまず問題となるのは、「日の丸印の 二輪車転がし」と「悪霊退散 ICBM」の関係だ。「二輪車を転がす。そして悪霊退散」程度のニュアンスなのだろうか。それとも「二輪車を転がすことによって悪霊退散」くらいの強い関係なのだろうか。(なお、PVでは「二輪車」のところで初音ミクが自転車っぽいものを漕いでいるが、オートバイやキックスケーター、そしてセグウェイ二輪車ではある)

そして「悪霊退散 ICBM」だが、これも「悪霊=ICBM大陸間弾道ミサイル)」なのか、「悪霊退散にICBMを使う」なのか、あるいは「日の丸印の 二輪車転がし 悪霊退散」と「ICBM」で分けてほうが良いのかもわからない。(その場合、ICBMが宙ぶらりんになってしまうが)。

(ここで一息つく)念のため書いておくが、「わからない」のがよくないと批判しているわけでは決してない。「わかる」歌詞が面白いわけがない。

『千本桜』の歌詞は、インパクトのある名詞をポンと置いて、その名詞の間の関係を示さないのが特徴だ。この歌詞のわからなさというのは、単語によるヒントが少ないとか、比喩が遠回しすぎてわかりづらい、といった類のわからなさではない。同じ作詞者の『上弦の月』はこの曲に比べると文章が中心にはなっているが、初っ端の「花道を薄く照らして 寄木細工 音を奏でた」という部分など、『千本桜』の面影を強く感じる。

あと、同じメロディのところで似た発音を使う。「禅定門」と「環状線」はかなりきっちり韻を踏んでいる。あと、「千本桜」とか「断頭台」とか「光線銃」とか「閃光弾」とか「大団円」とか、「大胆不敵」「反戦国家」「少年少女」「三千世界」とか、「ン」を畳みかける感じが聴いていて気持ち良い。発音の響きをとにかく重視して、そのためだけに用語をひねっていたとしても全然不思議ではない。

これは私の憶測だが、この曲は(wikiの説明に反して)特定の世界観を前提にしたり、何らかの政治的意図をもって作られたものではなく、雰囲気的に相性の良さそうな言葉を韻や類語、同語で繋ぐというのが制作の軸だったのではないか。「千本桜」と「三千世界」の、サビの同じメロディでの「千」の反復や、同音の「反戦国家」「環状線」「戦国無双」「光線銃」「百戦錬磨」「禅(ぜん)定門」「閃光弾」という「せん(ぜん)」の徹底的な反復を見ていると、そう思うのである。

そう考えた上で、以下また不毛にも解釈を失敗し続ける。

(続き)

環状線を走り抜けて 東奔西走なんのその

ここはどちらも走っているという文なので、前後関係はなんとなく思い浮かぶ。

なお、「環状線」は路線が円になっているもので、山手線とかが主たるイメージ(厳密に言うとそうではない、と書いてあるネット記事も見かけた)だが、普通に走ったら円の中をぐるぐる回るだけなので、東奔西走できない。円の外側に突っ切るイメージだろうか。

少年少女戦国無双 浮世の随に

「浮世の随に」は倒置法で、「浮世の随に、少年少女(が・の・による)戦国無双」だろうか。それとも、「浮世の随に 千本桜 夜に紛れ」と繋がっているのか。

「少年少女戦国無双」=「浮世」と取ると、好戦的なのが浮世の風潮だと解釈できる。一方、「浮世の随に」「少年少女」が「戦国無双」だと取ると、戦争など省みない世で、少年少女だけが好戦的な状態だということになる。

千本桜 夜ニ紛レ 君ノ声モ 届カナイヨ

「千本桜」が「夜ニ紛レ」ているのか。それとも「千本桜」で一旦切って、「夜ニ紛レ 君ノ声モ届カナイヨ」がまとまって、「君」もしくは「君ノ声」が「夜ニ紛レ」ているのか。

「君ノ声モ」の副助詞「モ」は、「梨もりんごも美味しい」みたいに、類似したものを列挙する「も」だとすれば、「千本桜も夜に紛れてるし、君の声も届かないし……」と取れるし、「他の人の声も届かないし、君の声も届かないし」とも取れる。「猿も木から落ちる」というときのように、極端なものを取り上げて、それも例外ではないという「も」(猿だって木から落ちる)なら、「君の声だって届かない」と取れるが、これはちょっと微妙かもしれない。この「も」は、何かに長けている人を引き合いに出すことで、猿も木から落ちる、猿以外の普通人ならなおさら木から落ちるだろう、みたいに「それ以外」にフォーカスした表現であると考えられるからだ。これを歌詞に当てはめると「君の声だって届かないんだ。じゃあそれ以外の人の声なんてなおさら届かない」となるが、そんなニュアンスではないだろう。

あと、「君の声も」か「君の/声も」かによって意味が変わる。前者なら、「あいつの声も、そいつの声も、そして君の声も」となるし、後者なら「君の手も届かない、足も(?)届かない、そして声も届かない」となる。

「夜ニ紛レ」からの「君ノ声モ届カナイヨ」は、「二輪車転がし」からの「悪霊退散」と同じで、「夜ニ紛レ、そして君ノ声モ届カナイ」と、「夜ニ紛レたことによって(せいで)、君ノ声モ届カナイ」と異なるニュアンスで取ることができる。

なお、黒うささん作詞の曲『虹色蝶々』でも、突然カタカナの文が出てくるのだが、何の意図でそうしているのかはわからない。「~ヨ」のような台詞的な文章ではカタカナになっているのだろうかと考えたが、次の「見下ろして」の解釈に依る。

此処は宴 鋼の檻 その断頭台で 見下ろして

宴と鋼の檻の関係がいくつか考えられる。「此処は宴、そして鋼の檻の中でもある」「ここは宴、そんな中にも鋼の檻がある」「ここは宴、そしてあそこは鋼の檻」など。

「その断頭台」の「その」という指示語は、相手「あなた」「君」に近いものを指すときに使う。「君ノ声モ届カナイヨ」の「君」がいる場所が断頭台?

「見下ろして」は、「見下ろしてください」という、要求や願望なのか、「見下ろす、そして……」という接続の意味なのか。「見下ろしてください」の場合だと、先ほどのカタカナ=呼びかけ台詞説の反証となってしまう。しかし、一番の歌詞の最後は「打ち抜いて」であり、それに対応する二番の歌詞に「打ち上げろ」があり、これらは後者から判断して明らかに命令文であるので、やはりカタカナ=呼びかけ台詞説は間違っている、ということになる(この説が正しいなら「打チ抜イテ」となるはずだから)。

三千世界 常世ノ闇 嘆ク唄モ 聞コエナイヨ

並べられた単語間の関係を考えるという繰り返されてきたことを三千世界と常世の闇の関係において行いたいところだが、これは今までとは違う難しさがある。「三千世界」は仏教の言葉で、「常世」は神道古神道、日本神話)の言葉であるからだ。神仏習合が起こっているのだ。「三千世界」は大雑把に言うと仏教における全宇宙のことで、「常世」は古神道における死後の世界のことである。

これは、二番の歌詞「禅定門を潜り抜けて 安楽浄土厄払い」にも同じような意図した、あるいは意図せざる神仏習合が起こっている。「禅定門を潜り抜けて……」のところは、PVでは鳥居のイラストだが、「安楽浄土」とあるように「禅定門」は仏教のものなので、普通は鳥居ではない。また、厳密には「厄払い」は神社の言葉で、仏教の場合は「厄除け」だ。この神仏習合は意図したものか意図せざるものかは不明だが、神仏習合が明治時代に行われたことを考えると、あながち(一般的に想像されている)世界観とは矛盾していないといえる。

一方、「三千世界」は仏教の意味から転じて、一般的にこの世界のことを全て指して使うこともある。そうした用法の場合、神仏習合は起こっていない。また、「常世」も一般的な意味として永遠を指すこともある。この両方を採用すると、「この世界」「永遠の闇」という並びになる。ここでも「この世界(の)永遠の闇」なのか、「この世界(と)永遠の闇」なのかは決定できない。

 

嘆く唄も…については、「君の声も」で書いたのと同じなので省略する。

青蘭の空 遥か彼方 その光線銃で 撃ち抜いて

ここもやはり「青蘭の空(の)遥か彼方」か「青蘭の空(は)遥か彼方」か……など繋ぎの助詞はわからない。

そして、前後の繋がりとして、光線銃は青蘭の空を撃ち抜くのか、私を撃ち抜くのか、それともまた別の対象なのかはわからない。

ちなみに光線銃は、遊園地の​アトラクションとか子どものオモチャとして親しまれているが、実用化の例はまだ少ないといえる。また、あとで出てくる「閃光弾」はいわゆるスタングレネードで、光で相手の視力を一時的に機能させなくするもの(同時に音で聴力を奪うものもある)なので、殺傷能力はない。

 

これで一番の歌詞は終わりである。

そして本記事もここで終わりである。二番のことも今後書くかもしれないが、本記事の書いたことと同じようなことが延々と続くだろう。

 

 

余談「本当は怖い」「本当はエロい」系の考察はなぜ多いか

経験的な話として、ボカロの曲の考察的なものは、乱暴に言うと、だいたい「本当は怖い」「本当はエロい」のどちらかになりがちだ。

「本当は怖い」「本当はエロい」で私が前提としている考察の例は、以下のようなものだ。「本当は怖い」は例えば、『パンダヒーロー』の「カニバリズム」の意味だとか、『トゥイー・ボックスの人形劇場』の「キズネコトム」は戦闘機の名前だとか。「本当はエロい」は例えば、『聖槍爆裂ボーイ』の「0.02mmの壁」はコンドームだとか、『ギガンティックO・T・N』の「40口径乱れ撃ち」は射精だとか。(例に挙げているのが最近の曲じゃないのは、お許し願いたい。)

これに対し、いくつかの理由が考えられるが、まず一つ目に「エロ怖は隠すものだから」ということが考えられる。怖いものやエロいものは道徳上、隠すべきものなので、難しい言葉や比喩を使うなどして直接的な言及を避けるのだ。そのため、受け取り手は言葉の意味を調べたり、解釈することを求められ、考察の必要性が生じてくる。

二つ目の理由は、「そもそもボカロ曲にエロ怖系が多い」ということ。その背景には、「インターネットのもつアングラ的な性格(最近はそうでもないが)との相性の良さ」に加えて、「子どもが持つ、ライトなエロ怖を好みがちな傾向」が挙げられるだろう。。

三つ目に、「本当は怖い」「本当はエロい」は、いわゆる考察というものがやりやすい。これが例えば、

まとめると、①考察される曲にエロ怖系が多い ②そもそもボカロ曲自体にエロ怖系が多い ③エロ怖は考察がしやすい

 

先程「本当は怖い」で挙げた例に限れば、これらの「わからなさ」というのはいずれも知識の問題だ。こういった知識的な「わからなさ」は、大抵ググればわかる。そして、その検索の過程は謎解きや宝探しみたいに楽しめるし、上手く答えに辿り着ければ満足感を得られるし、優れたコメントや”考察”に反応することで、視聴者の間で連帯感を得ることもできるだろう。(おそらく一部のボカロ曲は、こうした視聴者の行動を促すよう設計されている。)

一方、「本当はエロい」で挙げた例では、知識に加えて、比喩的な解釈を必要とする。コンドームの厚さが0.02mmだと知っていたとしても、「壁」が、文字通りコンクリートとかでできた壁だと思っていたら、コンドームには辿り着かない。このように、エロには解釈作業が必要とされるため、より答えに辿り着くまでの難易度は高くなる。そのことは、「他の人(同年代の子供)にはわからないかもしれない」という優越感をおぼえさせる。

「本当は怖い」「本当はエロい」の曲の動画にて散見されるコメントに、年齢や学年(主に小学生)を書くものがあるが、これは優越感の表れであって、またこのコメントは直接同年齢の子供に訴えているのではなく、年上の視聴者に対して「その年上の視聴者が当の子供(コメントをする子供)と同年齢だった時間」に訴えているのである。そうした差異がなければ(つまり他の子どもと同い年なら)、年齢など書く必要はないし、年相応のものを見ているにすぎないのだから、優越感をおぼえることもない。