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コメディにおける「物語」の破壊~ハートフルコメディとハードコアコメディ~

コメディというジャンルを愛好する者なら、以下の二つのうちどちらかを経験したことがあるかもしれない。

①ハートフルな筋立てに感動的なハッピーエンドを期待していたのに、非合理的な展開が最後まで続いた挙句に主要人物が報われない終わり方をして、釈然としないあるいは胸糞悪くなる。

②主要人物がハプニングに振り回されて散々な目に遭い続けるのを期待していたのに、後半から教訓めいた話になって、最後は"感動的"なハッピーエンドで終わり、反吐が出る。

 

この記事では、

①の人が期待していたようなコメディ作品を「ハートフルコメディ」、

②の人が期待していたようなコメディ作品を「ハードコアコメディ」と呼ぶことにする。

 

 

1. ハートフルコメディとハードコアコメディを区別する「物語」

ハートフルコメディとハードコアコメディを区別するのは「物語」に対する態度(「物語」の肯定/否定)だが、まず「物語」とは何かを言わなければならない。この記事で「物語」と書くときは、おおむね「フィクション作品における、高揚した感情(ここでは主に感動)を喚起させる内容や形式」を指していると思ってほしい。そして「物語性」と書くときは、「高揚した感情を喚起させる性質」のことである。また、この「物語」における「感情」は生理的なものというより道徳的なものであって、笑いのような生理的反応とは区別する。

絵画で例えると、ロマン主義の画家ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の物語性は高いが、モンドリアン抽象絵画『赤・青・黄のコンポジション』の物語性は極めて低い。音楽で例えると、ロマン派であるワーグナーの『ニーベルングの指輪』の物語性は高いが、十二音技法を用いたシュトックハウゼンの『グルッペン』の物語性は極めて低い。

結論から書くと、筆者の考える「笑い」は秩序の破壊を伴うもの(このことについては別の機会に書く)であり、ハードコアコメディではこうした「物語」も破壊対象である。しかしハートフルコメディはこうした笑いの破壊的な性質を生かしつつ、「物語」は破壊せず保存する。

 

2. ハートフルコメディの特徴

ハートフルコメディは「物語」「物語性」を活用したプロットを特徴とする。私は以下の妄想によって、ハートフルコメディの特徴を説明したい。自分の創作した概念を、自分の創作したプロットで説明するのは馬鹿げているが、特徴を羅列するよりも話が早いのである。

ドラマ映画の傑作『ショーシャンクの空に』がもしもハートフルコメディだったら、どうだろう? 例えばこうなるかもしれない。

貧しい主人公(アンディ)が自殺を図るが、ふと窓の外にアイスクリームスタンドを見つけ、死ぬ前にあれを食べようと考える。家に金は無く、預金の全額である1ドルを引き出しに銀行へ行く道中、車がはねた泥で主人公の服と眼鏡が真っ黒になる。最悪の気分で銀行に入ろうとすると、黒ずくめの服にサングラスをかけた銀行強盗たちが警察に追い立てられているところで、一緒に押し出されてそのまま護送車に詰め込まれてしまう。他の強盗たちが罪を認める中、当然無罪を主張する主人公。その態度が裁判で不評を買い、最終的に終身刑を宣告される。個性豊かな強盗達(反資本主義者の革命グループだと判明する)は同じ刑務所に収監され、最後まで自白しなかったアンディを革命のリーダーとして忠誠を誓い、自己紹介ついでに役に立たなそうな特技を披露する。刑務所には、窓の外にいたアイスクリームスタンドの店主もいて、彼は無断で路上に店を開いたとして、不当に長い刑期で収監されていた。「死ぬ前にアンタの店のアイスクリームを食べようと思っていたんだ」「俺の店のアイスを食べたら死のうだなんて馬鹿な考えは消え失せちまうぜ」など会話を交わしたりなんだりして彼とは相棒的な存在になり、なんやかんやあって脱獄することになり、様々なハプニングが起こるが、例の強盗達の特技によって受刑者全員(皆冤罪か真っ当な思想犯)が脱獄し、はずみで刑務所長が部屋に貯め込んでいた現金も外にばら撒かれ、お陰で不正蓄財がバレて所長は逮捕される。主人公の冤罪も明らかになる。主人公はようやく1ドルを引き出してアイスを食べ、これらかも生きていくことを誓うのだった。

(なお、主人公が『フィガロの結婚』を流すシーンは、もっと陽気な音楽、例えば70年代のディスコ曲、あるいはラップで受刑者たちが冤罪になった経緯をノリノリで歌うことになるだろう。)

この創作物を『ショージャンク(show junk)の空に』と名付けるとして、これを例にとって説明すると、ハートフルコメディでは、笑いの要素を入れつつ、「生きていくことへの希望」といった道徳的なメッセージを示すことが可能である。

ハードコアコメディとの区別においては、そこで機能している笑いが何を破壊し、何を破壊せず保存しているのかに注目することが必要だ。ハートフルコメディにおいて破壊されているのは、古典的な物語機構、すなわち論理的な因果関係である。『ショージャンク(show junk)の空に』で主人公がアイスを食べようとして結果的に逮捕されたことを、夏目漱石の小説を考察するような身振りで考察することはナンセンスである。

一方、ハートフルコメディで保存されているのは先ほども書いたように道徳的なメッセージであり、そこには「物語」が依然として残っている。これについては次の「3. ハードコアコメディの特徴」で書く、ハートフルコメディによる「物語」破壊の様態によって相対的に明らかにしたい。

 

3. ハードコアコメディの特徴

ハートフルコメディと比較したとき、ハードコアコメディの特徴は「物語」の徹底的な破壊である。『ショージャンク(show junk)の空に』をハードコアコメディにすると、ラストは例えば次のようになる。

脱獄した挙句にアイスが不味すぎて死亡。

この記事の最初に、ハートフルコメディを期待する人がハードコアコメディを鑑賞した際の心情について書いたが、ハードコアコメディはある種の「胸糞悪さ」を感じさせることすらある。タランティーノ監督がモンティ・パイソンの『人生狂騒曲』に含まれるスケッチ(コント)の一つに対して形容したように、"nauseous"なものである。*1それが胸糞悪いと感じるのは、「物語」の破壊によって道徳が破壊され、どこまでも生理的だからである。

他のフィクション作品に典型的な「物語」をパロディ的に借用してそれを破壊することもあれば、最初から壊すべき「物語」を持たないものもある。その代わりに現れるのは「シチュエーション」であり、いわゆるシチュエーションコメディ(シットコム)の形態をとる(ちなみに、ローレル&ハーディやバスターキートンらの短編コメディ映画はシットコムの初期形態だと筆者は見ている)。この両者はそれぞれ「ハードなハードコアコメディ」と「ソフトなハードコアコメディ」というべきものだが、話が複雑になるので本記事では深追いしない。

なお、モンティ・パイソン作品、特に『人生狂騒曲』のスケッチ群は、「人生の意味とは何か」をテーマに掲げながら人生の意味どころかその問い自体を無効化していく「ハードなハードコアコメディ」の一つだが、これをホラーと区別するのは、ハートフルコメディと区別するよりも難しい。笑いと恐怖は、生理的な反応という点で似ているからである。

ハートフルコメディとハードコアコメディの区別に話を戻す。この両者の違いはオチによってはっきりすることが多く、オチによって遡及的に「物語」に対して作品のとる態度が明確になる。しかし長編コメディ作品でこのようなオチを用意している作品はほとんどなく、ハートフルコメディは長編作品に、ハードコアコメディは短編作品になりがちな傾向にある。これについては次の「4.「物語」と尺の長さ」で詳しく書く。

 

4.  「物語」と尺の長さ

連続モノの短編ハードコアコメディ作品が人気のために長編映画になると、ハートフルコメディに似るのはよくあることだ。『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザムービー』『クレヨンしんちゃん』の映画作品*2がそうである。

また長編映画でなくとも、連続テレビ作品はスペシャル回になるとやはりハートフルコメディに似てくる。『The Office』のクリスマススペシャル、『スポンジ・ボブ』の「クリスマスってだれ?」、『おっはよー!アンクルグランパ』の「アーント・グランマの逆襲」など。

この謎については色々考えたのだが、長い尺というのは「物語」を必要とするのではないか、という仮説に今のところ落ち着いている。「物語」が長い尺を必要とするのではない。その逆である。また夏目漱石を例に出すが、『こころ』があんなに"深い"作品になったのは、長い(長期連載作品である)からである。深い作品だから長いのではなく、長いから深くなったのだ。

つまり、ハートフルコメディが長編作品に多いというよりは、長編作品がハートフルコメディにするのだという仮説である。これには、雑な言い方をすれば、長い間観たからには道徳的な教訓を得たい、得た気になりたい、少なくとも既存の道徳観に当てはまるものを見てすっきりしたいという観客の需要もあるだろうし、笑いに比べて「物語」の形式の方が冗長さが許されるので間が持つという脚本家の需要もあるだろう。

しかし、長編になるとハートフルコメディに近づくとはいえ、いくつかの長編ハードコアコメディ作品では、「物語」や、「物語」化している当の作品への批判的意識を垣間見ることができる。

『スポンジ・ボブ』の長編映画『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザ・ムービー』では、海賊(実写)たちが映画館でこの映画を観ているというメタ設定が最初から提示されるが、これによってスポンジボブたちの「物語」と観客の間にワンクッション挟まれる。そのうえ、スポンジボブとパトリックが死の危機に瀕するという"泣ける"シーンで海賊が号泣にむせぶ映像が挟まれ、二人が危機から脱すると、海賊たちは映画館で大袈裟に喜ぶ。観客の「感情」は、映画内観客の「感情」がコミカルに描かれることで純粋な形式としては破壊されるのである。

このようにして長編ハードコアコメディ作品は、様々な手法を通して「物語」と格闘する。

 

おわりに

本記事では、「ハートフルコメディ」と「ハードコアコメディ」という二つの造語によってコメディの分類を行った。

①「物語」と「感情」と「道徳」の関係 ②笑いが「秩序」を破壊するとはどういうことか ③ハードなハードコアコメディとソフトなハードコアコメディの区別 ④長編ハードコアコメディ作品が「物語」と格闘するときの手法 などについては今後書くかもしれないし、書かないかもしれない。

また、この記事では英米のコメディ作品を念頭に置いていたが、日本のコメディのことも書きたい。特にキングオブコント決勝において披露されたコントの「物語」に対する態度がいかなるものかについて。

それと以前このブログで、カートゥーンアニメと日本のアニメのリップシンクの事例を並べて比較検討する記事を書いたのだが、そこで少し触れた手塚治虫のアニメの影響というものが、日本でカートゥーンアニメ的な文法があまり受容されていないことに現れているのではないか(日本のアニメキャラの身体は不死性がなくなっていった)、なんてことも考えている。これもいずれ書きたい。

 

最後に、ハードコアコメディは本文中でいくつか実在の作品を挙げたがハートフルコメディでは架空の作品しか書いていなかったので、具体例を列挙しておく。これを最後に持ってきたのは筆者の浅学を隠すためである。

・『トイストーリー』シリーズ、『カーズ』シリーズ、『ファインディング・ニモ』などピクサー作品

・『ミニオンズ』シリーズ、『SING/シング』『グリンチ』などイルミネーション作品

・『パディントン』『パディントン2』

・『チャーリーとチョコレート工場

・『ミクロキッズ

・『The Mask』

・『星の王子、ニューヨークへ行く』

・『隣のリッチマン』

……など

 

 

 

最後の最後に、すべてのコメディ作品がハードコアコメディとハートフルコメディという区別に当てはまるわけではないことを付け加えておく。例えば喜劇王チャップリンの作品がそれである。ゆえにこの区別は、明らかに欠陥がある。

 

*1:タランティーノ監督のコメントはこちら。

Tarantino shocked by Python scene

筆者もこの作品に関しては文章にするだけでnauseousので詳細は割愛する。Wikipediaの『人生狂騒曲』の記事にそれぞれのスケッチの構成と粗筋が記載されているので、それを読んでいただきたい。「パート6」である。

*2:アニメ『クレヨンしんちゃん』に関しては家族愛を題材としたハートフルなエピソードも複数あり、ハードコアコメディに分類するか迷ったのだが、日本の子供向け連続コメディアニメとしては珍しく比較的ハードコア路線を維持しており、映画でも後に書くような「物語」との格闘が見られる作品があるため、ハードコアコメディとして分類した。